今日、某経営誌の取材を受けました。今回の特集は
「岩崎弥太郎と渋沢栄一」。
お~、やっと来たかと思いました。最近の竜馬伝への
熱狂(私も毎週見ています)、そして「論語と算盤」に
関心が高まっているので、個人的にはこれは、面白い
比較になるなァと思っていたので、どこか取り上げて
くれるのではないかと読んでいました。
一般的な岩崎vs渋沢の関係は、→ これです。
確かに、二人の経営思想は異なるところがあった
のでしょう。事業は才能ある人間が経営も資本も独占
すべしと考える弥太郎。合本制で国と民を富ますには
利益を多くの出資者に還元すべしと考える栄一。
二人が組めば(弥太郎が44歳、栄一が38歳)当時の
日本の実業界を二人の思いのままにできるという
弥太郎の話に、栄一が怒って帰ってしまった。。。という
対立がなければ、ストーリ-として面白くありません。
しかし、本当に二人は、そんなに仲が悪かったのか?
ま、自分がその場にいた訳せはないので、正確には
わかりませんが、この説には、いくつかの疑問を
持っています。
・岩崎弥太郎の背後者であったといわれている大隈
重信とは、栄一もかなり深い交流があって、大隈の
説得がなければ、栄一は新明治政府には入ることなく、
役人として銀行法など国の基本法を整備することなく、
もしかすると銀行をつくっていなかったかもしれない。
・隅田川でケンカ別れしたといわれる明治11年8月の後
の明治12年8月にに 東京海上保険会社の設立に互いが
協力している。弥太郎が資本金の3分の一を出資する
ことによって、新しい業態のベンチャーの信用が高まった。
(結果的に、出資が殺到し、弥太郎および三菱の出資は
5分の一に引き下がった。)
・渋沢栄一の孫の敬三の結婚式の写真を見たこと
ありますが、確か仲人が、岩崎弥太郎の息子の
久弥(三菱の三代目)であると記憶しています。
(花嫁が弥太郎の孫であることは確かです。)
むしろ、二人が似ているところが重要ではないでしょうか。
弥太郎は下級武士という立場、栄一は農商人という立場
で両方とも、封建時代の秩序では行き詰っていて闘志を
燃やしていました。そこで、たどり着いたのが、既存の
秩序をぶち壊すには、「商売」(昨日の竜馬伝によると)
と「実業」でした。
つまり、民間力によって、新しい時代を築くというビジョン
です。同じ山を目指していたのですが、ちょっと道が違った。
(でも、ときどき合流するときもあった。)
このほうが実態に近かったのではないでしょうか。